『アメリカ同時多発テロとはなにか?日本にいた当時の体験談』について、わかりやすく説明とお話をします。
2001年9月11日、午後9時45分(日本時間)、アメリカで同時多発テロが発生しました。
当時を振り返り
「とにかく寒気がして怖かったことを覚えています。」
「まるで映画のようで、現実味がなかった。それほど凄い衝撃を受けました。」
という人から
「私はまだ生まれていなかったので、教科書の中でしか知らない出来事です。」
「私は当時小さくて、あまり記憶にないんですよね。」
という人まで、様々な声が聞かれています。
そこで今回は
『アメリカ同時多発テロと、当時の体験談について』
わかりやすく説明と、お話をします。
この記事を読むことで
◎、当時一体何が起きており、その後世界はどうなっていったのかがわかります
◎、当時を振り返り、この出来事を風化させないキッカケの一つになります
それでは、同時多発テロについて一緒に見て行きましょう。
アメリカ史上最悪のテロ事件
同時多発テロとは
『アメリカ史上最悪のテロ事件』
です。
この事件の詳細については様々な場所で詳しく説明されているので、私からは本当に基本的な整理程度にしておきます。
詳しく知りたい人は、ウィキペディアを参照してください。
同時多発テロとは、イスラム過激派組織の一つであるアルカイダによるテロになります。
今でもアフガニスタンのクーデターで有名な、タリバンとか、イスラム国とか過激な集団がありますよね。
そんな過激な集団の一つがアルカイダということですね。
何が起きたのかというと、乗客の乗っている旅客機がハイジャックされ、そのままアメリカを象徴する貿易センタービルと、アメリカ軍司令部の国防相へ飛行機ごと突撃しました。
いわゆる自爆テロに旅客機を利用したというイメージです。
これが短時間で同時に発生したので、同時多発テロと呼ぶんですね。
ではなぜこのテロが起きたのか?
それは
『アメリカがイスラム地域に兵士を置いていたことが気に食わなかったから』
のようです。
「そんな理由で?」
と思うかもしれませんが、過激派集団ですしそんなことでもテロの理由になってしまうんですね。
その後、イスラム国はアメリカと関係を持つ各国全てもテロの標的と宣言し、世界中でテロへの警戒を強めました。
当然日本も標的の一つでした。
これを受けてアメリカは報復に出ます。
色々とありましたが彼らを擁護していた、当時アフガニスタンを占拠していた過激派組織タリバンをアメリカが追い出すという、武力抗争に発展したわけですね。
その追い出した後、20年経って
「そろそろ落ち着いたかな?」
とアメリカ軍が撤退を始めたタイミングで、再度タリバンが活発化したのが、最近起きたアフガニスタンでのクーデターになります。
このような世界の流れを作った同時多発テロですが、当時日本国内ではどんな雰囲気だったのか?
私の体験談を2つお話しさせていただきます。
①、同時多発テロ発生当時の体験談
②、警察官になってからの影響
これら同時多発テロに関する私の体験談について、是非最後まで聞いて行ってください。
①同時多発テロ発生当時の体験談
同時多発テロに対する私の率直な記憶は
『辛い思いをさせられた』
です。
前もって言っておきますが、多くの死者が出たこのテロに対しての感想としては少し不謹慎に感じる人がいるかもしれません。
しかし、私の記憶の中での正直な話なので、それはご了承ください。
<当時の私が置かれていた環境>
当時の私は大学生で、新聞奨学生でもありました。
新聞奨学生とは、新聞配達員をキチンとした仕事として4年間こなし切ることを条件に、学費を全額支給してもらえる奨学金制度を利用した学生のことを言います。
当時の私は
2:30 起床
担当区域の配達が終わるまで仕事
8:30 大学へ登校
15:00 夕刊の配達
担当区域の配達が終わるまで仕事
~20:30 苦情対応のため待機
21:00 就寝
みたいな生活をしていました。
<深夜電話で起こされる>
当時も次の日の配達に備えて21時ころに就寝しました。
すると携帯電話が鳴り始め、目を覚まします。
時間を確認すると23時
「誰だよこんな時間に、もうぅ~~~」
と着信を見ると、高校時代に仲の良かった友達からでした。
まだ半分寝た状態のまま電話に出ると
「新聞やってるから寝てたよね?ゴメン。でも、テレビ見て!ヤバいから!!!」
と、興奮気味の声で、とにかくテレビを見ろと言われ、テレビを点けました。
すると、飛行機が貿易センタービルに追突する、あの有名な映像が流れていました。
それを見た時の私の率直な感想は、多くの人の感想と同じで
「映画かな?」
です。
「自分あんまり映画見ないんだけどなぁ~。この深夜に放送されている映画が一体何なの?」
でした。
しかし、友達から
「これ映画じゃないよ!今起きている本物の映像!」
との必死の訴えで、一気に目が覚めました。
一気に目が覚めたのですが、私の頭の中に渦巻いていた考えは、次の日の配達への影響についてでした。
<翌日の新聞配達が気になる>
夜にこのような速報を必要とする大きな出来事が起きると、既に出来上がっている新聞記事の書き換えが急ピッチで行われます。
その結果、配達用の新聞がお店に届くのが遅れます。
それによって何が起きるのか?
新聞屋のことを人間と思っていない一定のお客から罵声を浴びせられます。
私の頭の中は、
「その罵声を浴びせられないための配達ルートをどうするか?」
の計算で一杯になりました。
新聞屋さんは会ったことのあるお客の態度等は全て記憶していますので、私も当時担当していた400~500世帯は全て把握しており
「あのお客は最優先で配達しないと怒鳴ってくるな!あの地域にそのようなお客はいないから後回しだな!」
みたいに具体的な家と顔を思い浮かべながら考えました
「はぁ~憂鬱だなぁ~。こりゃあ明日は大学間に合わないかな?」
と考えつつ、翌日の配達を急ぐ体力を温存するために再度眠りに就きました。
<新聞の遅延と怒鳴られる体験>
絶対に新聞が遅延するとは限らないので、いつものように2:30に起床して寮の一階にあるお店に向かいます。
いつもお店に新聞が届く3時になっても、当然新聞は届かず。
4時になっても新聞は届かず。
4時半過ぎにやっと新聞が届き、そこから約450部の新聞にチラシを折り込んで、バイクに積んで出発します。
出発できた時間は5時。
この時点で私の頭の中は
「はい、終わった。」
でした。
私の担当区域の中で特に新聞屋を低く見ているお客は、
「いかなる理由があろうと5時までに新聞を届けろ!1秒たりとも遅れるな!この汚らしい猿どもが!それまでに新聞が届いてないと、地域のラジオ体操までに読めないだろうが!」
ということを直接怒鳴りつけてくる人なので、出発時点で5時を回っている時点でアウトなんですね。
東京都葛飾区青砥3丁目、青砥公営団地・・・これ以上はやめておきましょう。
20年経った今でも覚えているものですね!
ともかく、その家主の怒りを極力小さい間に配達を済ませてしまう必要性があったので一番最初に配達に向かいました。
そして、ポストに投函するのをスムーズにできるように新聞を折り、ポストに投函した瞬間、猛ダッシュで逃走!
その場にいると暴言の嵐が半端ないので、顔を合わせないように逃げるわけですね!
その日も、逃げる私の背後で何を大声で喚き散らす声は聞こえていましたが、暴言なんて聞きたくないですし、時間的にも配達を急がなければならなかったので無視して立ち去りました。
その後は、新聞配達ハイの状態になり、なんだかんだでいつもより1時間遅れの7時30分過ぎくらいに配達が完了しました。
※新聞配達ハイ:気持ちと体が変な高揚感に包まれ、ゾーン状態で配達ができる状態。私の造語
このように、同時多発テロにおける私の体験談、記憶は
「深夜に起こされ、配達上も色々と辛い思いをさせられた。もう勘弁してよ~!」
なんですね。
完全にテレビの中の出来事として見ていた人よりは具体的な影響を受けてはいますが、私もアメリカに知人はいませんし、投資等もしていませんでしたので、直接的な影響は何もありませんでした。
これが今でも私の中にある同時多発テロの記憶です。
②警察官になってからの影響
<いつ、どこでテロが起きるかわからない恐怖>
その後私は大学と新聞奨学生を卒業し、警察官になります。
そこでの影響は
『テロ対策が意識されていた』
です。
同時多発テロの説明でも少し言いましたが、当時日本もテロの対象国として名指しをされていました。
アメリカの同盟国ですから当然と言えば、当然ですよね。
この同時多発テロを起こしたアルカイダという組織の特徴は、世界各国に構成員を潜ませておき、テロを起こすというモノでした。
今有名なタリバンやイスラム国とはこの辺りが少し違うんですね。
そのため、
「日本中どこで、いつ爆破テロが起きてもおかしくない!」
という緊張感がまだ残っているような雰囲気でした。
そこで、当時の警察も日本に潜伏しているかもしれないテロ構成員を早期に発見することに重点を置いていたんですね。
その具体的な方法は保安上の理由から言えませんが、私もそれは行っていました。
結局私のいた県警ではテロ構成員がいたという話は聞かずに終わりましたが、当時日本国内では度々
「潜伏していた構成員と思われる人物を発見し、逮捕した」
のような報道はありましたよね。
<警察組織に爆破予告が届いていた>
ではそれ以外で警察官だった私には何の影響もなかったのか?というと実は他にも影響はありました。
それが爆破予告です。
恐らく模倣犯の類だと思われますが、当時私の住んでいた警察宿舎に爆破予告が届くという事件が何度かありました。
そのため、
「爆破予告が届いたから、厳重に警戒し、仕事の時じゃなくても不審者には注意しろよ!見覚えのないモノが敷地周辺に有ったら即110番!車に乗る前は下を一度見るように!」
のように言われていました。
そういった、ピリついた社会の雰囲気が作られたという影響があったわけですね。
このようにテロは、社会に不信感というモノを蔓延させる悪影響が出るんですね。
そしてイスラム教徒の大半はこんなことをしませんが、一部の過激派がいると、
「イスラム教は危険な集団だ!」
とのイメージがついてしまうんですね。
<振り返りを行動のキッカケにする>
これは、テロやイスラム教だけの話ではありませんよね。
私達も日常を送る中で、(一部の人達だろうと)どこかに所属している人物が何か問題を起こすとそこには
『不信感』
が生まれます。
批判を集めている音楽フェスの出来事もそれと同じですよね。
そこにあるのは
『不信感を持たされた』
という事実のみで、キチンとしている人達が何を言っても、この一度植え付けられた不信感は中々拭えないんですよね。
仕事だって同じです。
一部の社員が何か不信感を植え付けるようなことをすれば、周囲はその会社全体に対して
『不信感を持たされた』
という事実だけが残ります。
人それぞれ、この同時多発テロから学び取ることは違うかもしれませんが、
「そんなこともあったなぁ~!」
「へぇ~、そんなことがあったんだぁ~。」
ではなく、これを振り返ることで自分の身を正したり、改めて何か行動を起こしたりのキッカケにしてみて下さい。
まとめ
同時多発テロとは、アメリカ史上最悪のテロ事件になります。
その上で、私の体験談
①、テロ発生当時の体験談
『大学生で新聞奨学生だった。身近な部分で辛い思いをさせられたという記憶が強い』
②、警察官になってからの影響
『潜伏しているテロ構成員を探す動き。爆破予告もあった。』
これで同時多発テロの当時、一体何が起きており、その後世界はどうなっていったのかがイメージできたと思います。
当時を振り返り、この出来事を風化させないキッカケの一つになったと思います。
そして、昔を振り返ることにより、貴方自身の行動に影響を与えるキッカケとなり得ますよね。
大きな決断を必要とする行動じゃなくて良いので、
◎、テロ撲滅への気持ちを思い出す
◎、平和な今を噛み締めて、周囲への感謝の気持ちを持つ
◎、緩んでいた自分の態度を正す
等々。
情報や記憶は持っているだけでは意味がありません。
何かしら行動し、活用することで意味を持ちますので、是非貴方のために何かしら行動を起こしてみて下さい。
なお、この記事をキッカケに私のブログにたどり着いた貴方は、他の記事も読んでいってください。
それも一つの新たな行動ですからね。
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